支那そばとは・・・

食べ物は一つの文化である。 日清戦争が終わった明治20年代末、中国大陸から難民亡命者が渡り 来て、外国文化を持ち込んだ。その中に柳麺というものがあった。 しかし獣肉の味や脂のスープの匂いなど、その時代の人々にはとても 受け入れられるものではなかった。しかし明治38年(1905年)醤油を 落とす事により、みごと動物臭さを消すことに成功したのである。 その後らうめん(ラーメン)、支那そば、中華そば、ラーメンと名称を 変え変化していくのだが、初めは横浜から広い東京市場へ広がり、 さらにあちこちの東京の夜空にチャルメラが鳴り響く。支那そば又は 東京そばなくして、ラーメンが国民食にはならなかったのである。

建長元年(1249年)信濃の人恩本覚心、法燈国師、円明国師が中国に渡り 建長6年に帰宅したさい、径山寺味噌を持ち帰り、和歌山の湯沢の浜田 さんが千葉に渡り、商品化したのが日本の醤油である。その醤油は日本人の遺産、ゆえに私の戦いが始まった。

日本は戦争に敗北する前まで中国を支那国と呼んでいた。 しかし昭和21年6月5日、当時の外務省総務局長岡崎勝男から、学術的な もの以外での支那という呼称の禁止通達がなされた。支那そばは十分 学術的なものだと私は思うのだが、実際に歴史にあったものが抹消 されることの方が問題である。「支那」とは決して差別用語などではない。 唐僧玄奘(三蔵法師)がインド戒日王と話しあった時も自分の国を 「摩訶至那」大支那と誇り高く言ったと言われているくらいである。 文学者魯迅も使っている格調高い言葉なのだ。

「ラーメンと注文されたら売らない支那そばですね」 そんなふうに言われたこともあった。 しかし何と言われようが、消された食文化の支那そばを復元させ全国へ 伝えるためにはその方法しかなかったのである。 私は日本独自の食文化の歴史であるその言葉を封印しようとする動きに 一石を投じ、葬られたはずの「支那そば」に付加価値を付け、初めてそれを 復元した。それから全国に支那そば屋が、我も我もとタケノコのように 生まれたのである。